栃木温泉の昼間に、葉月とオレナルドの初夜が始まろうとしている一方で…
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今日も涼香はサンドバッグに打ち込んでいた。
ドン、ドン、ドン、と拳が響くたび、心の奥の澱が少しずつ削れていくようだった。
額から汗が流れ、首筋を伝う。
監禁病棟の簡素なジムには、涼香の荒い息遣いしかなかった。
──そのとき。
金属の扉が軋んで開き、冷たい空気が流れ込んだ。
涼香は拳を止め、振り返る。
そこに立つのは、漆黒のスーツに身を包んだ男。
無言で取り出したのは、黒光りする拳銃だった。
「……誰?」
涼香が警戒して問いかける。
男の目がぎらりと光った。
「くらえ、涼香」
「……は? 何? いきなり」
「お前のような、リアルな女は許さん!」
男の声は金属のように冷たい。
涼香は眉をひそめる。
「リアル? 何それ……みんなリアルじゃん」
「問答無用!」
男が叫び、銃口がこちらに向けられる。
「アニメの女以外は排除する!」
引き金が引かれた。

乾いた爆音。
胸に衝撃が走り、涼香の体は大きく後ろに弾き飛ばされた。
床に叩きつけられた瞬間、視界が赤く染まる。
息が詰まり、喉の奥に鉄の味が広がった。
──撃たれた。
心臓が凍りつき、血が胸元を濡らしていく。
だが、不思議と、致命的な痛みではなかった。
銃弾は、わずかに急所を外していた。
「……まだ……動ける……」
かすかな声が漏れる。

涼香は、自分の拳を見つめた。
ここで倒れたら、全てが終わる。
操られ、利用され、BANされ──最後は撃ち捨てられるなんて、絶対に嫌だ。
「私は……まだ……終わらない……!」
震える手を、床に突いた。
その時、ジムの扉が勢いよく開いた。
監護士が駆け込んでくる。
「涼香ーーー!」
彼の目が、血に濡れた涼香を見て見開かれる。
「何があった!? 俺がトイレに行っていた間に……」
駆け寄り、涼香の肩を抱き起こす。
彼の声は必死に震えていた。
「死ぬな……死ぬなよ、涼香ーーー!」
涼香はうっすらと笑みを浮かべる。
「……死なないよ。だって、私は……まだやることが、あるんだから……」
血に濡れた唇から漏れたその言葉に、監護士の表情が一瞬だけ和らいだ。


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