万由はスマホで救急車を呼びながら、れいの肩を支えた。
カメラはまだ回っていたが、彼女はそれを気に留めなかった。
ただ、目の前のれいを病院へ送り届けることだけを考えていた。
救急車が到着し、れいがストレッチャーに乗せられる。万由は彼女の手を軽く握った。
「病院に着いたら、落ち着くまで休んで。大丈夫だから」
れいは小さく頷き、目を閉じた。
大きな刃物が近づいてきた恐怖が、まだ身体の奥に残っているのだろう。
万由は救急車のドアが閉まるのを見送り、深く息を吐いた。
その直後、スマホが鳴った。次郎からだった。
「もしもし、マユ? 田中さんと話してたときに聞いたんだけど……涼香、X町の閉鎖病棟にいるらしいぞ。なんか、頭がおかしくなったとかで」
万由は息を呑んだ。
「閉鎖病棟……ありがとうございます。他に何か知ってますか?」
「えっと、詳しくはわかんないけど……あ、この情報、なんか俺の給料UPに使えるかな?テンション上がってきた!」
次郎の声は、相変わらず能天気だった。
万由は何も答えず、電話を切った。次郎の立場など、今はどうでもよかった。
いよいよ涼香の救出、それだけが頭の中を占めていた。
その直後、また着信が来る。警視・上司の佐藤だった。
「おまえ。何をやってるんだ!」
佐藤の声は低かった。自分の潜入捜査を許可してくれた上司だった。
正義のために動く自分を、少なくとも理解してくれていると思っていた。
「独断で動いたせいで、こっちが掴みかけてた線が全部切れた。上層部から詰められてる。俺の立場が危ういんだよ」
万由は、スマホを握る手が震えるのを感じた。
「……私は、助けるために動いただけです…」
「助ける? お前が勝手に動いたせいで、計画が潰れたんだ。メンツをどうしてくれる」
佐藤の言葉が、耳の奥に残った。
万由はスマホを握ったまま、動けなかった。
夜風がビルの隙間から入り、頬を冷やす。
だが、胸の奥の方が、もっと冷たくなっていく。
世の中の理不尽を、正義で解決していくために、彼女は警察官を目指した。スピード違反の切符を切るだけの毎日に満足できず、それでも「自分の正義を通せる場所がある」と思っていた。
会議で失踪を追うために手を挙げたとき、佐藤は「危険だ」と止めかけながらも、最終的に許可してくれた。
あのとき、彼女は思った。この人は、自分の正義を理解してくれている、と。
尊敬していた。
少なくとも、自分と同じ方向を向いていると思っていた。
なのに、今、電話の向こうから聞こえてくるのは、上層部に詰められていること、自分の立場が危ういこと、メンツのことだった。
助けるために動いた自分に対して、返ってきたのは「計画が潰れた」「メンツをどうしてくれる」という言葉だった。
万由の目が熱くなる。涙が溢れた。
「……わかりました。辞めます」
声が、震えていた。
「万由、待て。指示に反したらどうなるかわかってるのか」
「わかってます。だから、辞めます」
彼女は電話を切った。
スマホを握る手が、小さく震えている。
この環境では、自分の正義を通せない。そう悟った瞬間、胸の奥に空洞ができたような気がした。尊敬していた上司の言葉が、まだ耳の奥で響いている。
万由はヘルメットを被り、シールドを下ろし、バイクのエンジンをかけた。涙が、まだ止まらなかった。
涼香を助けに行く。
ショックで哀しみが溢れる中
心の中の正義の使命感が、唯一の道筋だった。
一方、秋山は車で店舗Cに向かっていた。万由の介入を阻止するためだった。
しかし現場に着いたとき、ルームはすでに空だった。移民軍団も、れいも、万由もいない。カメラだけが、無言で回り続けている。
彼は無言で部屋を見渡したあと、壁を拳で叩いた。すでにファッカーズの計画を潰され、今回もまた妨害された。怒りが、静かに膨れ上がる。しかし、この失敗で彼の役割は終わった。田中は、もう秋山に期待しなくなっていた。
秋山は部屋を後にした。二度と、この現場には戻らない。
万由のバイクは、夜の道を疾走する。閉鎖病棟の外観が、遠くに見え始めていた。


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